中学時代3(漢字テスト編)

僕は子供の頃からずっと勉強が嫌いだった。今でも勉強をすること自体は特に好きな行為ではない。必要を感じたり、興味を持った事でない限り、自分から進んで無闇やたらに勉強する事はまず無い。そんな僕が中学2年の終わりが近付いた頃、初めて自分から進んで勉強に励む事になった。それは、ある朝目覚めると突然勉強が好きになっていた、というわけではないが、ある重大な事に気付いたのだ。

僕はカンニングに夢中になり過ぎていて、気付くまで随分と時間がかかったが、完璧にカンニングを成功させる為の準備は、下手したら真面目に勉強する以上の時間と労力なのではないかと考えるようになった。同じ時間をかけるなら、見つかった時のリスクがあるカンニングよりも普通に勉強した方が得に決まっている。
そこでとりあえず一度、本気で勉強をした自分にどれだけの実力があるのかを実験してみる必要があった。まずは小手調べに日本人学校の漢字テストで30問中、自力で25点を取ってみる事にした。別にカンニングをするわけではないので遠慮する必要は無かったが、急に満点を取ってしまうと、真面目に勉強したにも関わらず疑われてしまう危険性があるだろうと警戒し、とりあえず無難な点数から攻めてみる事にしたのだ。
そんなわけで真剣に漢字を覚えようと思い立ったは良いが、それまで本気で勉強に取り組んだ事が無かった僕は、どう勉強して良いかが分からなかった。漢字はとりあえず何回も繰り返し書いて体で覚えるしかないと言われていたが、そんな機械的な作業をひたすら繰り返せるほど僕には辛抱強さがなかった。そこで、小さな頃から絵を描くのが好きだった僕は、漢字をただの「イメージ」と考えるようにして、一つ一つ自分なりに漢字をデザインのように絵にしていった。「漢字」を「漢字」として頭にインプットする事は出来なくても、自分が描いた「絵」のイメージを想い描く事は僕にとっては簡単な事だったので、そうやって暗記するスタイルを築いた。
実験は見事に成功し、狙った通り25点を取れた。

この実験により、例え勉強を好きになる事は出来なくても、他に自分が好きな事と上手い具合に組み合わせる事で、少しでも楽しめるように工夫する事は可能だという事が分かった。
その要領で他の科目も同じように勉強しはじめると、カンニングをしなくても自力で良い成績を取れるようになったのだ。

しかし、次第に欲深くなった僕は、そこそこの点数では満足できなくなり、満点を取らなければ気が済まなくなってしまった。特に、ただ形を覚えるだけで良かった漢字テストは僕にとっては得意分野だったので、勝手に自分の中で大きな課題を立てた。中学3年の一年間、毎週ある漢字テストで毎回満点を取るという目標だった。漢字テストは毎週30問出題されるが、それまでずっとカンニングしかしていなかった僕にとって、いきなり中3レベルの漢字を毎週30個も覚えるのは結構ハードルの高い目標だったが、一度決めたら何が何でもやり遂げなければ気が済まない頑固な性格の僕には、そのくらい極端な目標でもなければ真剣に勉強に取り組む事はなかっただろう。

結論から言うと、中学3年の漢字テストでは最初から最後まで全て30点を取る事ができた。しかし、一度だけ危ない時があったのを今でも覚えている。あれは恐らく中学3年の中盤あたりの頃だったと思うが、ある週、戻ってきたテストが29点だったのだ。一体どんなミスを犯してしまったのかと確認すると、たった一つだけ「点」を入れ忘れていた所があったのだ。たかが「点」の一つくらい大目に見るべきだと先生に必死に抗議したが、なかなか聞く耳を持とうとしない。そこで僕はもしも30点に直してくれなければ、今後一切、漢字など勉強しないと訴えた。あまりの執念深さに先生も手が負えなくなったのか、最後は諦めてなんとか30点に直してくれた。ただし、大目に見るのは最初で最後という条件付きでだ。勿論、それから僕も相当慎重になり、小さなミスすらないように心がけるようになった。あの時、先生が折れてくれなければ、僕は本気で漢字どころか勉強を全般的に投げ捨てていたかもしれない。当然、勉強で大事なのは点数ではなく何を得るかなのだが、人はそれぞれモチベーションを高める為に何らかの目標が必要で、そのモチベーションを持続される事も同じくらい大事な事だと思う。当時の僕は30点という数字にとらわれ過ぎていたかもしれないが、それが僕にとって勉強をするモチベーションになっていた事を理解してくれて、間違いを正解にしてくれた先生には今でも感謝している。おかげで、無理矢理ではあったものの、なんとか目標を達成して気持ち良く中学を卒業する事ができた。

ハワイでの日本人学校は、日本の義務教育と同じ中学3年までしかなかったため、中3を卒業すると同時に僕が日本語を勉強する環境は無くなった。あれだけ毎週いやいや通っていた学校も、終わってしまうとなんだか寂しいものだった。
しかし、寂しさに浸っている暇はそんなになかった。現地校の方も中学を卒業すると、3ヶ月の夏休みを挟んで高校が始まる。まったく違う学校で、またまた大勢知らない生徒達が集まる環境で再スタートしなければならない。
高校ともなると4年も差のある先輩がいるわけで、そんな事は小学校3年生ぶりの事である。ただし、大きな違いは、高校では授業によって同じクラスに様々な学年の生徒が混じり合い、一緒に勉強するという点だ。これは小学校から中学校に入った時とはまた全然違う劇的な変化だった。

しかし、日本人学校も終わり、宿題の一つも出ない幸せな夏休みを純粋に満喫していた僕は、そんな事も知らず、まさか突然11年生や12年生ばかりのクラスに9年生の僕が放り込まれる事になるとは、思ってもいなかった。

つづく

中学時代2(カンニング編)

遊ぶ事だけが生き甲斐だった僕にとって、一日の大半を勉強で埋め尽くされる人生は過酷だった。2年生の時は二度同じ学年を繰り返すはめになって腹を立てていた僕も、こんな人生が待っていると知っていれば何度も落第して小学校に居座りたいと思ったに違いない。
小学生の頃から勉強は家に持ち込まないというスタイルを死守してきたが、中学に入ってからの宿題量は流石に授業中に片付けられるような半端なレベルではなく、とうとう家でまで勉強をせざるを得なくなってしまった。その上、現地校の宿題やテストの他に、土曜日の日本人学校の宿題やテストの勉強が待ち受けていた。こんなハードスケジュールでは遊ぶ時間が一切ない。とは言え、根は真面目だった僕は宿題をやらないで学校へ行って叱られるのも嫌だった。中学生にもなれば学問の道を完全に踏み外して不良になる者も少なからずいたが、僕の場合は不良になりたかったわけではなく、純粋に遊ぶ時間が欲しかったのだ。その為には効率よく勉強をする方法を編み出すしかないと考えた。

試行錯誤してひねり出した答えはカンニングだった。カンニングとは言っても、当然全ては無理だ。そこでカンニングは暗記系のテストでのみ実行する事にした。そもそも一生のうちに数回しか使わないような情報を丸暗記する事には意味が無いと考えていた。無駄な知識は始めから脳に詰め込まない方が時間も脳細胞も節約でき、一石二鳥だと自分を正統化した。

しかし、カンニングには緻密な計画が必要なのだ。無闇にカンニングに走る人間はたいがい失敗に終わる。テストの勉強と同じように、当然カンニングにもそれなりの時間を投資しなければいけない。まずは信頼だ。普段から真面目な生徒を演じ続け、先生から絶対的な信頼を得なければならない。宿題は間違えてでも必ず真面目にやり、頭が悪くても努力を惜しまない生徒である事をアピールする事が大切だ。授業中、眠くてなっても集中しているフリを怠らない事も大事だ。「まさかこの生徒がカンニングをするハズが無い」、と先生に思い込ませる為の下準備が一番重要と言っても過言ではない。まずそれだけでもテスト中にマークされる確立が相当低くなり、成功率がグンと上がる。

次にカンニングをする上で大切なのは、欲張らない事である。カンニングで100点を取り続ければ怪しまれて当然だ。身の程を知り、分相応を心掛けなければならない。大体、70点から80点台くらいの地味な点数を取っていれば先生の目を引く事はないだろう。一回や二回の事ならともかく、何度も成功させる為には目立つ事を避けるのがベストなのだ。

カンニングシートは、事前にパソコンでギリギリ読める小さな文字で印刷し、消しゴムとケースの間に隠しておく。印刷するメリットの一つは手書きよりも小さなスペースにギッシリ丁寧に情報を詰め込める事だが、もう一つは万が一見つかった場合、手書きでなければ誰の物か特定しにくいという事だ。
あとはとにかく冷静に、そして無闇に先生の動きをチェックせず、目線をテスト用紙から離さない事。テスト中ほど先生が暇な時はないのだから、当然先生は生徒の目線や動きを見ている。こちらが先生の様子を伺う事ほど怪しまれる行為はない。決して無理はせず、良い点数を取る事よりも絶対に見つからない事を優先しなければいけない。時には手をあげて先生を自ら呼び、あえて質問をするのも良い。大体、カンニングをしている生徒に限って先生を遠ざけたいと思う気持ちが表に現れてしまうが、どうどうとこちらから引き寄せる事で先生のガードをゆるめる事が出来る。先生が元の位置に戻る時に背中を向けて隙が出来た時は、迷わず答えを書き写そう。

ここまで書いておいて言うのもなんだが、カンニングは決して勧められる行為ではない。一度でも見つかればその先ずっと「悪い生徒」というレッテルが貼られる事になる。生半可な気持ちでやるものではない。ラクして良い点数を取ろうという甘い考えでは絶対に成功はしないだろうし、その時は上手く切り抜けられたとしても、その先の人生で苦労する事は間違いないのだ。
幸いにも自分は中学の2年間、カンニングで見つかった事は一度もなかったが、中学3年の時から自力でテストに挑もうと思い立った時には、2年分のブランクを穴埋めする為に必死に勉強をしなければいけなくなった。ツケが回るとはまさにこの事だ。

さて、中学3年から何を血迷ったのか、突然学問に励むようになったこの異変は何だったのか?

それはまた次回お話する事にしましょう…。

中学時代 その1

アメリカでは小学校6年生の後は7年生になる。一応「中学」という区切りはあり、7年生と8年生の2年間が中学の期間とされている。日本だと中学、高校が3年づつなのに対し、アメリカでは中学が2年、高校が4年なのだ。結果としては小学校から高校卒業までで12年というのは変わらない。

ニ年とは実に中途半端な感じもするが、言わば高校へ向けて色々と変化する上での準備、もしくは適応期間といった所だろうか。小学生まで一つのクラスに対して一人の担任がほぼ全ての科目を教えるスタイルだったのが、中学からは「担任」というものが存在しなくなり、科目ごとに生徒がクラスを移動するスタイルになる。スケジュールは一人一人の生徒が違うため、授業ごとにクラスメイトも入れ替わる。つまり一つの特定のクラス(団体)という形がなくなり、早くも個個を形成させる仕組みになっている。

中学は小学校よりも規模が大きく、あちこちの小学校から色々な生徒が入ってくるため、たまたま同じクラスに顔見知りがいる確立もかなり低かった。30人ほどいるクラスの中で前の学校が同じだった生徒が3人もいれば良い方だ。早い話、ほとんど知らない人達ばかりだ。あれだけ悪さをして遊びまくっていた友達の皆も、中学からは私立校などに散らばってしまい、バラバラになってしまった。実は僕がつるんでいた仲間は皆それなりに頭が良かった。僕以外は皆、遊びながらも受験勉強をしていたようで、ちゃっかり良い学校へ入学していた。本気で遊びまくっていたのは僕だけだったようだ。
そんなわけで一人取り残されてしまった僕は、とりあえず家から一番近く、どんな馬鹿でも入れるパブリックスクールへ入学する事になった。近いとは言っても車で15分ほどかかる距離で、歩けば1時間以上はかかる。それが僕の住んでいた場所から一番近い中学校だった。朝は母が仕事にいく途中でおろしてくれたが、帰りはバスだった。学校からスクールバスという生徒用のバスが出ていて、親が迎えにこれない生徒はたいがいこのバスを使った。しかし、厄介な事にこのスクールバスが結構いい加減で、学校が終わる時間に学校に来ていない事が多い。全てはバスの運転手の気分にかかっている。10分や15分の遅刻までなら許せるが、一時間以上待っても来ない時は諦めて市バスで帰るしかない。ただ、この市バスが通るルートも学校から15分ほど歩いた所にあり、その上、これもまた一時間に一本ほどしか通らず、しかもこっちも時間にいい加減なのだ。時間より早く来て行ってしまったり、15分以上遅れてやってくる事もある。ギリギリでバスをはずしてしまった時などは一時間かけて歩いて帰った。実に不愉快だが、それがアメリカでは常識なのだ。日本でバスや電車が時刻通りに来るという当たり前のような事がどれだけ奇跡的な事か、アメリカに住めばよく分かるだろう。
とにかく通学は悲惨だった。小学校の頃がどんなに幸せだったかを思い知らされた。

学校のスタイルそのものに慣れるのも最初は大変だった。毎日が同じスケジュールでルーティーン化されているのではなく、例えば月曜日は1から5科目目まで続けてあるとする。しかし火曜日は1科目目の次が3に飛んで、4科目目のあとにまた6に飛んだりと、曜日によって順番が入れ変わる。一つの授業が終わると皆がバラバラのクラスへ移動するので、誰かに頼るわけにはいかず、自分でスケジュール管理をしなければならない。

授業内容も小学校とはひと味違って本格的だった。時間がある限りビッシリ授業が行われ、皆で楽しく学びましょうという雰囲気ではなかった。小学校がお気楽すぎたのかもしれないが、まるで勉強をする為だけに通う塾のような空気だった。授業に着いてこれない者は置いて行くといった姿勢で、完全に先生のペースで授業は進められる。数学、英語や社会はなんとかなったが、理科は完全に諦めモードに入るしかなかった。というのも、小学校の低学年の頃、僕は理科や音楽の時間に別のクラスで英語を習わされていたため、基礎中の基礎がまったく分かっていなかった。小学校の高学年の時にでも自分で基礎から勉強し直せば追いついたのかもしれないが、あの頃は学校以外で勉強するなど考えられなかった。なので僕は音楽の基礎知識もまったく無い。当然、楽譜も読めない。それどころかドレミファソラシドが一体なんなのかもよく分かっていない。それに比べてたったの2歳しか違わない弟のマイケルは有名なバークリー音楽大学に行ったというのだから、幼少期の2年というのがどれだけ大きなものかが分かる。
幸いにも中学からは音楽か美術のどちらか一つを選べば良かった。僕は迷わず美術の道を選んだ。しかし理科の方は選択の余地がなかったので、とにかくギリギリ単位をもらえる成績を死守する事に徹した。理科のクラスでは韓国人のジュンという頭の良い友達を作り、宿題を毎日やってもらっていた。テストは毎回落第点だったが、宿題だけは「やっていた」ので、総合的にはなんとか単位をもらえる成績が取れた。ジュンはたまたま僕の美術のクラスでも一緒だったが、彼には芸術的センスが一切なかった。逆にそのクラスでは彼の絵に僕が手を加えて助けた。このように、助け合う事が人生では大事だという事を中学では学んだ。

数学はどちらか成績が良かった。決して得意だったわけではない。たまたま数学だけは土曜日だけ通う日本人学校でも同じ事を少し先に習っていたため、現地校で習う二度目は皆よりちょっと有利だったのだ。日本人学校の方ではむしろ数学の成績は2や3とかなり悪い方だった。本当は数学は大嫌いだったが、現地校は数学のレベルが低く、何故か僕は数学のクラスでは常にトップの成績で、先生やクラスメートからは「できる人」と勘違いされた。僕も次第に図に乗り始め、自分は数学が得意なのだと思い込むようになった。これがのちに自分の首を絞める事態に繋がるのだが、それはもう少し先の話だ。

中学は小学生の頃とは明らかに空気が違っていた。それは場所やシステムがガラっと変わったというだけの事ではなく、大人になり始めようという意識が周りの子供達に芽生えてきたからかもしれない。まだ大人になりたくなかった僕にとって、この空気はとても重いものに感じられた。

つづく

少年時代2(探検編)

小学生の頃は本当に無茶な事ばかりしていた。今思うと結構危険な事も数多くあっただろう。そのうちの一つが通学ルートだった。

僕が住んでいたマンションから小学校は子供でも普通に歩いて通える距離ではあった。そんな事もあり、親に車で送ってもらったり、バスで通学する子供達が少しうらやましかった。今でこそ15分〜20分、どうって事の無い時間だが、子供の頃はこの毎日の歩く時間が嫌で嫌で仕方がなかった。
下の地図を見れば分かるように、学校の周りが住宅地だった為、一直線に突き進む事が出来ず、グルっと回らなければならない。それでも一応、2つのルートがあり、その日の気分によって道を選べただけマシではあった。

僕はいつもこの道を歩きながら、「どこでもドア」や「タケコプター」が早く発売されてくれる事を願ったが、なかなかそんな便利な道具がハワイのような田舎で販売される様子はなかった。しまいには「武空術」を身に付けるしかないとまで考え出すようになったが、やはりハワイの田舎ではそんな高度な術を教えてくれる達人はいなかった為、平凡に歩いて学校まで通うしかなかった。それでも僕は諦めきれず、毎日歩きながらもっと良い方法はないかと考えていた。

アニメや漫画に影響され過ぎていた僕は、最初は空から飛んでいく事ばかり考えていたが、次第にそれが現実的ではない事に気付く。確かに一直線に突き進む為には「空から」と誰もが考える事なので、発想としては間違っていなかったに違いない。しかし、子供ながらに空から行く手段は「無い」と悟った僕は、新たな発想を求めてアニメチャンネルを研究し続けた。

今でこそ日本のアニメも海外で観られるようになったが、あの頃はまだそういう時代ではなかった。日本にいる頃はドラえもんやドラゴンボールにハマっていたが、アメリカではアメリカのアニメを見るしかなかった。しかしアメリカのアニメも日本とはまた違った刺激を与えてくれた。影響されたアニメの一つにTeenage Mutant Ninja Turtles(ニンジャ・タートルズ)というのがあった。このアニメ(実写版もあった)では、主人公のタートルズ達は下水道の中で暮らしているという設定なのだが、僕はここからヒントを得て、下水道を使えば学校まで早く行けるかもしれないと考え始めた。

勿論、アニメの中でも決して下水道の中が明るいイメージで描かれていたわけでもなく、下水道といえば暗くて臭くてジメジメした陰湿なイメージが湧いたし、そんな所に足を踏み込むのは当然怖かった。しかし、僕が一番大きな影響を受けた映画がIndiana Jones(インディ・ジョーンズ)であった事もあり、僕は常に日常の中で冒険を求めていた。もはや冒険と探検盛りの少年を止める事は誰にも出来なかった。

インディ・ジョーンズに憧れていた僕は、当然、住んでいた地域内は片っ端から探検しまくっていた。だから何処に何があるかなどもほとんど把握していた。住んでいたマンションの裏に大きなマンホールがあった事を思い出した僕は、そこから下水道に入るのが人目もあまりなくてベストだと判断した。

この冒険にはチビのマイケルを連れて行くわけにはいかなかったが、一人で入るのも心細かったので、一番最初に入る事を決意した時は同級生の友達数人を引き連れる事にした。勿論、中には危険過ぎると判断して入る事を拒否した者もいた。結局、入ったのは僕とマークとライアンの三人だ。

穴は思ったほど深くなかった。大体5〜6メートルくらいだろうか。鉄のハシゴが付いていて、そこから下る事ができた。想像していた通り、そこは真っ暗闇の世界だった。懐中電灯の一つも無ければ右も左も分からない。だが一つ想像と違ったのは、その空間の狭さだった。幅は人が一人通るので精一杯で、高さも子供の頃の僕らがやっと立ってあるけるくらいしかない。大人なら中腰にならなければ進めないような狭い穴だ。おまけに道は一本しかない。迷う心配をせずに真っすぐ進めるという意味では良かったが、もっと広々とした地下世界を想像していただけに、少し拍子抜けしてしまった。

とにかく僕達はしばらくその暗闇の中を突き進んだ。すると、やがて遠くの方に微かに光が見えた。出口はそう遠くない。一体どこに出るのか想像もつかないまま僕達は出口を目指した。そして数分後、僕らは出口に辿り着いた。またハシゴを上がって地上に抜けるのかと思っていたら、なんとそのまま真っすぐ横穴から出るような作りになっていた。それは雨が降った時の水がそのまま海に流れるように作られた水路のような所で、僕達が出てきたのはその堀の両脇にいくつもある穴のうちの一つだった。実際にはそんなに雨が降らないハワイでは、滅多にそこに水が溜まる事はなく、僕達も以前からそこで遊んでいた。なにしろそこは学校のバスケコートのすぐ裏だったのだから、放課後の遊び場の一つだったのだ。まさかその穴が直接自分のマンションに繋がっていたとは、その時まで想像も付かなかった。

今まで歩いて15分以上もした通学時間が一気に5分に短縮されるのだから、これは驚きだ。なにかとてつもない大発見をしてしまったような気分になったのを今でも覚えている。

「これからは毎日、学校が始まる10分前までは余裕でのんびり過ごせる」とそう思った。実際、しばらくはそんな夢のような日々をおくっていたのだ。しかし、「通学も悪くないな」、そう思い初めていた矢先に僕は信じられない重大なニュースを耳にする事になる。もうすぐ小学生が終わり、中学生になったら別の学校に行かなければならないと言うのだ。しかも今度の学校は歩いて行けないほど遠いらしく、僕の夢のような通学ライフは割とあっけなく幕を閉じる事となった。

また一つ、人生の厳しさを知った。

つづく

少年時代(侵入編)

日本の学校は大体、数階建ての校舎一つとグラウンドが一つという構造がスタンダードになっている。土地が高くて敷地を多くとれない都内などでは屋上がグラウンド代わりという学校もある。しかし、土地が余っていそうな田舎に行ったとしても、やはり学校の形は基本的に同じで、無闇に広い敷地を使ってアメリカのように校舎がいくつもの建物に分かれているような構造のものは無い(中にはあるのかもしれないが少なくとも僕は見た事がない)。日本は縦社会と言われているが、小学校の建物ひとつをとっても、既に縦社会的な「作り」になっているのだと思う。横に伸びれば伸びるほど全体をまとめるのも大変になり、移動距離も伸びたりと、色々な面倒や無駄が生じる事は間違いないだろう。しかし、子供にとって遊べる範囲が広ければ広いだけ遊びの幅も広がる。ハワイは日本より断然狭く小さな島であるにも関わらず、学校は必要以上に広い。僕の少年時代の思い出は主に小学校が中心になっている。小学校そのものが巨大な遊び場だった。
これが僕の通っていた学校の航空写真である。

黄色い線で囲まれている部分が学校の敷地で、学年ごとに建物が分かれている。ほとんどが1階建ての建物で、高くても2階建ての建物が2つあるくらいだ。休み時間の遊び場所は低学年と高学年で分けられていて、それなりのルールはあったものの、かなりの広い空間で自由な事をして遊べた。バスケットボール、ドッジボール、バレーボールなどが出来るコートがあったり、野球やサッカー、鬼ごっこなどが出来る広いフィールドもあった。地面でボードゲームやチェス、カードゲームやメンコで遊ぶ子もいたが、基本的に1時間ほどの休み時間中はクラスは閉まっていて、室内に引きこもる事が許されなかった。何をするかは自由だが、授業中以外は外で時間を過ごせといった感じだったのだろう。図書館もあったが、昼休みが終わる15分くらい前までは使用禁止で、どういうワケかなるべく室内に入れようとしないのだ。
当然、これだけ広い敷地になると、散らばった生徒を監視する大人が必要だ。大体、常に5~6人くらいは監視役の大人が学校中に散らばってウロウロしていた。これは先生ではなく、その為だけに雇っている一般人で、それが生徒のお母さんだったりする事も時々あるが、年配のおばさんが特に多かった気がする。

これだけの自由を与えられていたにも関わらず、僕と数人の友達はそれだけでは満足できなかった。単純にルールを破るスリル感を楽しんでいただけかもしれないが、立ち入り禁止エリアへの侵入が僕らの遊びだった。最初は低学年の遊ぶエリアに忍び込む所から始まった。忍び込んで何をするというワケでもなく、ただ監視の目をかいくぐって侵入するだけだ。しかしそれがなかなか難しい。低学年側と高学年側の境界線の両側に別の監視がいるため、最低でもこの二人が違う事に気を取られている瞬間でなければ侵入は難しい。
僕のこの頃の友達グループは5人で結成されていた。白人のマークとライアンの二人、インド人のローランドと、中国系のクリス、そして僕。ローランドは優等生で成績も良く、僕達と一緒に行動はしていたものの、リスク(見つかる率)の高い無謀な事にはほとんど挑戦せず、どちらか僕ら側の「見張り役」的な存在だった。
マークは完全なギークだ。コンピューターや機械に詳しく、色々なガジェットを学校に持ってきていた。その一つがトランシーバーで、僕らはそのトランシーバーを使って離れた所から通信できた。
クリスもどちから臆病な方で、役割的には監視の目を引くポジションが多かった。実行するのは主に僕かマークかライアンだ。
侵入は無事に帰還しなければ成功とは言えない。時に成功する事もあれば、侵入には成功しても戻る前に見つかるという事もあったが、このくらいまでは少し叱られる程度で特別な罰はなく、刺激としては物足りなくなり始めた。次に僕らが目をつけたのは、学校の南側のフィールドの一番外側にある、学校の敷地を囲う為に植えられた木々の中へ侵入する事だった。「森」と呼ぶほど大げさなものではないが、僕らは森と呼んでいた。囲いに使われていた木は(名前は分からないが)枝と葉が下の方までおりてくる種類の木で、全体を覆って中が大きな空洞になっている部分が数カ所あった。一度中に入ってしまえば外からは全く中が見えない。秘密基地としては最高の空間だった。

問題は入るまでだ。無闇に広く何も無いフィールドは、大勢の生徒を監視するには最適過ぎた。上の画像の黄色い★のマークが付いている部分が、このエリア付近の監視の大体のポジションだ。恐らくこの森には昔から多くの生徒が侵入を試みたに違いなく、監視もこのエリアに関しては一段と目を光らせていた。僕らが低学年側に侵入しやすかったのも、得にこちら側に注意するように学校側に指示されていたからだろう。
森への侵入には罰があった。捕まると数日から1週間ほど、昼休みの時間にカフェテリアやトイレ、庭の掃除などをやらされるはめになる。これは相当リスクが高い為、生半可な気持ちでチャレンジする生徒はほとんどいなかった。僕らもスリルを楽しんでいたとは言え、簡単に捕まりたくはなかったし、見られていない事を祈って一直線に森まで突っ走るほど馬鹿でもなかった。森の近くの隅の方で遊んでいるフリをして、誰も見ていないスキに入ろうという事も考えたが、その辺りまで近付いた時点で注意され、逆にマークされてしまう為、直接入るのは無理だった。
そこで僕達はバスケットコート側からの侵入を試みた。コート内はバスケの他にドッジボールなども出来たため、狭い空間の割には人口密度が高く、一人で瞬時に全員の行動を把握するのは難しかった。そこで誰か一人が転んでケガをしたフリなどする事でスキを作り、残り全員が一気にバスケコートの裏の木の裏に駆け込む。

秘密基地までは少し距離があり、そこに辿り付くまでは細々とした木が多く、完全に見られないと安心できるわけではないが、あとはゆっくり注意しながら前に進むだけだった。秘密基地への侵入は無事成功した。
しかし、これも何度も繰り返しているうちに飽きてしまい、新たな挑戦を求めた。次のターゲットは図書館だった。図書館は何故だか昼休みの前半は入れない事になっていた。僕達はその入ってはいけない時間帯に侵入しようと計画を立てた。
図書館は保健室や校長室のある隣の建物と繋がっていた。だから図書館へ入るルートは正面出入り口以外では隣の建物の中を突っ切るしかない。しかしその建物への侵入は流石に避けた。言ってみれば刑務所へ自ら入って行くような無謀な行為であるからだ。

結局、僕らは正面から侵入する道を選んだ。だが最大の問題は、図書館は入り口を開くといきなり目の前にカウンターがあり、そこに図書館の館長が常に座ってパソコンをいじっているのだ。館長が何かの用事で外に出る時は必ず鍵もかけて出る為、館長が中にいる時でなければ図書館の鍵は開いていない。つまり侵入する為には、必ず館長が目の前にいる状況で、尚かつ気付かれないようにコッソリ入らなければいけない。この不可能のような侵入を僕達はやり遂げた。
方法は意外にも単純だが、やはりオトリが一人必要だった。まずオトリが図書館の扉を開く前に、侵入する人はしゃがんだ状態で見られないように待機する。(ドアは窓付きで上半身は見えても下の方は見えない)
オトリが扉を開くと同時に、侵入者は床に這いつくばった状態で前進する。オトリは館長と何か適当な話をして数十秒のあいだ視線をそらさせなければならない。無事に2人か3人が中に入るとオトリは図書館を去る。
しかし侵入してから約20分もの間、僕らは静かな図書館で声一つ出さずに身を潜めなければいけない為、すぐに安心は出来ない。図書館には館長以外にも本を棚に戻しにくる係もいて、侵入中は係の動きに合わせて常に一定の距離を保って移動し続けなければいけない。昼休みが終わる15分前になれば他の生徒も入ってくる為、その中に溶け込んで最後は自然と出て行ける。これも別に侵入できたからと言っても何のメリットもなかったが、あの頃の僕らはとにかく侵入に燃えていた。放課後もそんな事ばかりやっていた。放課後に存分に遊ぶ為に宿題は主に授業中に済ませてしまっていた。例えば英語の授業が終わると宿題が出されるが、次の算数の授業中に英語の宿題を終わらせる。更に次の授業では算数の宿題を終わらせる、と言った流れだ。最後の授業で宿題が出たところで宿題の量は最小限におさえる事が出来た。遊びほうけていたとは言え、決して宿題すらやらないほど不真面目な生徒だったわけではない。ただ純粋に放課後の時間を無駄にしたくなかっただけなのだ。

そんなある放課後、近所の探検に明け暮れていた僕らは学校までの通学時間を劇的に短縮できる裏ルートを発見してしまった。それは新たな冒険の幕開けだった…。

つづく

言葉なき世界への目覚め

母国語が何語であれ、7歳やそこらの子供をまったく別の言語の世界へ連れていき、母国語の勉強をさせないで放っておくと、その言語を失う可能性が非常に高い。

子供が覚える言語は、親が話す言語よりも周りの環境で一番使われている言語で決まる。僕が生まれたばかりの頃、父は日本語はほとんど話せず、母との会話も英語だった。勿論、僕に対しても常に英語で話し続けた。父の日本語は上達したが、子に英語を話させたいという気持ちもあり、子供にはずっと英語で話しかけた。テレビやビデオもなるべく英語のものを見せたり、英語の絵本を買い与えたりと必死に努力はしたが、それが報われる事はなかった。近所の友達、幼稚園の先生や子供達、一歩外に出れば英語を話している人はいない。僕は英語で話しかけてくる父の言葉は理解しようともせず、返す言葉は全て日本語だった。ハワイに連れていかれ、強制的に覚えざるを得ない状況を作られなければ、自分から英語を覚えようという気にはならなかっただろう。

もう一つ面白い例がある。学校の同級生に両方の親が日本人の子がいた。その子の親は元々日本生まれ、日本育ちの完全な日本人だが、仕事の関係でハワイに引っ越してきて、ハワイで子供を生んだ。これはそこまで珍しいケースではないのだが、その親は英語圏に住んで10年以上も経つのに英語がほとんど話せない。例えそこが外国であろうと、勤め先が日本の企業で、その国の言語を覚える必要性がなければ必死に覚えようとはしないのだ。そんなわけで、当然その家族は家では日本語しか話さない。しかし子供が日本語を覚える事はなかった。結局、中学生になる頃には完全に英語しか話さなくなった。なんらかのコミュニケーションはとれているのだろうが、親は日本語しか喋らず、子は英語しか話さないという不思議な光景だ。こんなケースを自分の周りだけでもいくつも知っている。言語とは、親が子供にそのまま引き継がせられるほど単純なものではないのだ。

僕の親はその事に気付いたのだろう。7年間、いくら英語で話し続けても子供はまったく吸収しようとしない。ならばどこか英語圏に連れて行って強制的に覚えさせるしかないと考えた。しかし、いざハワイに連れて来て英語を覚え始めたのは良いが、このまま英語中心の教育を続ければ日本語はどうなってしまうだろうか?
ハワイの現地の学校に通い始めて丁度1年が過ぎた頃、母は僕達兄弟を「日本人学校」へ通わせる事を決意した。それは週に一度、土曜日だけ通う学校で、実際の現地の校舎を土曜日限定で丸ごと借りて、幼稚園から中学3年までが学年別に振り分けられ、科目ごとに別の先生までいるという、日本の文部科学省より認定された補習授業校だ。現地校は月曜日から金曜までしか授業がないため、週二日も休みがある事は天国のようだった。しかしそんな日々は長くは続かず、あっという間に地獄へ変わってしまった。

振り返ると僕の人生の序盤はハンデだらけだった。まず、生まれた時点で周りと「見た目」が違う事で、日本の社会に普通に溶け込みずらい状況だった。陰湿ないじめに合うほどではなかったとは言え、小学校では「ガイジン」とからかわれる事もあった。ハワイに引っ越すやいなや、英語が出来ない僕は、皆が7年も前に走り始めたマラソンにいきなり参加させられ、全速力で追いつかなければならないと命じられる。その次は1年生から丸1年のブランクがあるにも関わらず、日本語学校の3年生のクラスに放り込まれた。これもまた追いつかなければならない。日本人なら日本人、アメリカ人ならアメリカ人、とどちらか一つに集中できる人生をうらやんだりもした。子供にとっては相当過酷な状況だ。現地校の友達の誕生日会が土曜日にあっても、それに参加する事すら許されないのだ。現地校で出た宿題に加え、日本人学校の方も一週間分の大量の宿題をまとめて渡され、更にテストまである為、その勉強も合間にやらなければならない。だから日曜はあって無いようなものだった。

恐らくこの頃が僕の人生の中で一番辛い時期だったと思う。小学生2〜4年生くらいまでの2年間は、出遅れた分の穴埋め期間だった。本来ならば一番遊べる楽しい時期だったに違いないが、その2年を犠牲する事で、なんとか薄ら皆の背中が見えるようになる所まで追いついた。成績的には主に「C」(上から順にA,B,C,D,F)と決して高い方ではなかったが、平均レベルは保てるようになり、日本人学校の方でも同じく中間の「3」を取れるようになった。あまり欲がなかった当時の僕は、不得意な分野で無闇にAやら5を取ろうと必死になるタイプではなかった。それよりも自然と頑張らなくても「A」が取れた「アート」に興味を持ち始めた。得に訓練を受けたわけではなかったが、どうやら絵を描く能力は平均以上のものを持っていたようだ。それが天性的なものだったのか、それとも「言語」にさんざん悩まされた結果、言葉を必要としない能力を自然と好むようになり身に付けられたのか、今となっては分からない。ハッキリしているのは、5年生になる頃には僕は既に「絵描き」になる決意を固めていた。他の勉強はもはや無意味とさえ考え始め、勉強よりも絵を描いたり遊ぶ事ばかり考えるようになっていた。その先数年の学校の成績は酷いものだった。現地校はなんとかCかDを保てたが、日本人学校に至っては2と1が中心になり、3が取れれば「5」を取ったかのような優越感に浸れるほどの重症だったと言える。
そしてこの頃が一番遊んだ時期だった。学校にも遊びに行くような感覚になり、毎日が楽しくて仕方がなかった。切っ掛けの一つは、絵描きになる事に目覚め、勉強を放棄した事だったかもしれないが、それを実際に可能にさせてしまった一番の原因は母親が仕事を始め、日中誰も家にいないという状況が生まれたからだろう。学校が終わってから夕方までの時間帯が完全に自由になり、好き勝手に遊びまくる事が出来たのだ。それは決して反抗期という感じではなく、単純に遊び盛りに溜まった好奇心とエネルギーが一気に爆発してしまったような感じだったのかもしれない。母も最初は努力をしたに違いないが、決壊してしまったダムの水を止める事は不可能だった。それを無理矢理おさえようとしていれば反抗したかもしれないが、ただじっとおさまるのを待ってくれたおかげで、自然とほとぼりは冷めた。自然とは言ってもだいぶ時間はかかった。大体5年生から中2くらいまでの3年近くの期間、僕は「遊び」という学問に励んだ。この3年で僕は学力的にまた一般レベルから大きく突き放される事になるが、やりたいようにやらせてくれた母には感謝している。

この頃の「遊び」とは一体どういうものだったのか?
それはまた次回にお預けです。

つづく

ライオンの子

英語知識ゼロだった僕が皆と同じ授業を受けるにはまだ早過ぎた。まともに授業を受け始める前に、まず最低限の単語やリスニング力を身に付ける必要があった。
だからと言って一日中マンツーマンで英語を教えてくれる先生など学校にはいない。その為、僕のように外国からきた生徒やクラスのレベルについていけない生徒だけを集めた特別なクラス(SLEP)が存在した。(ESLとも呼ぶらしい。その違いがいまいち分からないけど、僕の時はSLEPだった)

SLEPには学年問わず色々な生徒がいた。それは一日中ずっといるクラスというわけではなく、得に英語力が必要とする授業(英語、歴史、科学など)の時に代わりに行くクラスだった。美術、音楽、体育などの授業は普段のクラスメイト達と一緒に受ける。ただ僕の場合は最初のうちはアートや音楽なんかの時間も英語に当てられ、クラスで皆が絵を描いたりしている時に、隅っこに追いやられてヘッドフォンでリスニングの特訓をさせられていた。

ヘッドフォンにはカードを読み込む特殊な機械が繋がっていて、イラスト付きのカードを一枚づつスライドさせると、そのカードに描かれた物の単語が読まれる。例えばリンゴの絵なら「Apple」と英語の発音で流れる。とりあえず何百枚かあるカードをひたすらスライドさせ、何度も聴いて覚えるという作業を繰り返すように命じられた。定期的に先生がきて適当に選んだカードの単語を発音しなければならないテストもあったので、真面目に学習するしかなかった。

一通り、単語が分かるようになると、次は聴いたものを書き取るディクテーションに変わった。(後に僕がiPhone用アプリとして開発した「書きトレ」はこの時の経験から作られました。詳しくはこちら:英語脳って何さ?
ディクテーションとは耳を鍛えるトレーニングです。スペルや文法を意識したり、聴いた事を理解しようなどと考えてはいけません。スペルは分からなければデタラメでも間違えても良いので、聴いたまま手を止めず書き続けます。むしろ間違える事が大事です。間違えは後からいくらでも正せます。でも途中から聴き取れなくなった時点で書く事を止めてしまうと、それは正す事すらできません。分からないからと言って書かなければ確かに間違える事はないでしょうが、学ぶ事もできないという事です。ディクテーションはそういう勉強法です。そして間違いなく効果はあったと思います。この約一年後には、完全にではなかったとは言え、そこそこ周りの英語を理解できるようになっていたし、友達と最低限のコミュニケーションがとれるようになっていました。適応しなければ生きていけないという現実と、そこに鬼のようなスパルタ授業が加わり、英語を身に付けざるを得ない状況が生まれたのです。

弟のマイケルは僕よりもラッキーな状況だった。マイケルは年齢的に幼稚園からのスタートだった為、授業内容もアルファベットを覚えたり、歌を歌ったり、アニメを観たり、お昼寝タイムまであったりと、僕が味わった地獄とは大違いだ。勿論、マイケルにもマイケルなりの苦労があったに違いない。むしろそう願いたい。

入学してわりとすぐに夏休みに突入した。その夏なにをしたかはあまり覚えていない。ハワイには季節がなく、年中夏なのだ。ハワイにいた十数年間の記憶はずっと夏のイメージばかり。だから何がいつ起こったかなど、記憶が混同している。大体、何年生の頃の記憶というのは覚えていても、一年のうちのいつ頃だったかを思い出す事が非常に難しいのだ。

そんなわけで次に覚えているのは夏が終わって9月に新学期が始まった時の事になる。それはあまりにショッキングな出来事だった。本来ならば新学期からは新しい学年のスタートのはずなのに、何故か僕だけもう一度2年生をやり直す事になった。厳密にはやっと本来いるべき学年に戻ったようなものなのだが、納得ができるはずがない。ようやく顔見知りや友達が出来てクラスメイトと仲良くなったと思ったら、前とは違う生徒ばかりの学年に入る事になったのだから。また一からやり直しだった。

リオ(Leo)と言う名の由来はライオン(Lion)だと言われている。ライオンは子を崖から突き落とし、自分で這い上がってこさせるという話がある。本当はそんな事はしないだろう。
だがあの時の僕は何度も谷底に突き落とされるような試練を乗り越える事で、英語社会を生き抜く力を身に付けられたのかもしれない。生き物は、生き抜くためなら必死に適応する。学習の原点は実に動物的な部分に潜んでいる。僕は頭で英語を覚えたのではない。カラダで覚えたのだ。動物のように。

つづく

現実世界への一歩目

7歳の少年だった僕は「ハワイ」なんて聞いた事もなかった。
世界地図のどこにあるのかも、それがアメリカという国の一部である事も知らない。
当時はパソコンを使って事前にネットで写真や映像を見て心の準備をするような環境はなかった。だからそれが「島」だという情報を耳にした時、僕はジャングルだらけの無人島のようなイメージしか浮かばなかった。恐らくアニメか何かの影響だったのだろう。毎日がサバイバル生活で、当然学校なんか無いのだとばかり思い込んでいた。だから実際にハワイに着いて、ちゃんと文明が存在する島である事が確認できた後も、「学校」という存在そのものが脳裏の片隅に追いやられていたため、まさか数日後にいきなり現地の学校に放り込まれる事になるとは想像もしていなかった。

そこはある意味でジャングルだった。自分の知る文化も言葉も一切通用しない。周りが話している言葉も一切理解できない。僕は自分の名前を英語で書く事すら出来なかったのだ。サバイバルする為の道具の一つも渡されずに、いきなりジャングルのど真ん中に連れていかれ、置き去りにされたような気分だった。

僕が入ったのは小学2年生のクラス。日本で1年生を終えてすぐにハワイに来たので、それが当たり前だと思っていた。しかしそれは大きな間違いだった。その時は知らなかったが、日本とアメリカでは学年の始まりと終わりの時期が全然違うのだ。日本では3月に学年が終了し、4月に新年度が始まるが、アメリカでは大体6月に終わり、長い夏休みをはさんで9月に新年度が始まる。なので僕が入った時期と言うのは、まさに学年が終わりそうなタイミングであり、言ってみれば実力も無いクセに飛び級をしたような事になる。そんな事も知らず、僕はまた最初から1年生をやり直させようと企む校長の陰謀を阻止する為、必死にダダをこねて無理矢理2年生のクラスに入れてもらう事に成功したのだ。無事に2年生入りが決定し、僕は自分のクラスへ連れて行かれた。先生がクラスの皆に僕を紹介をした後、あたえられた席に座ると同時に授業が始まった。そのわずか数秒後、僕は人生初の判断ミスというものを思い知る…。
「1年生にすればよかった…。」

勿論、1年生のクラスであっても結果は同じだったに違いない。しかしダダをこねて自分が選んだ道の先に待っていたのが「異世界」だった事に僕は大きなショックを受けた。
子供はある時期まで親の言う事に逆らえずに従って生きていくしかない。成長するにつれ、少しづつ「選択の余地」や「意見の主張」と言う権利が与えられていく。そして全ての行動には「責任」と「結果」がもれなく付いてくる事を学ぶ。人は自らの行動によって最悪の結果を生み出してしまった時、はじめて「現実」と向き合う事になる。

そこは異世界でもジャングルでもなかったのだ。
とうとう僕は「現実の世界」へ足を踏み入れてしまった。

つづく

ハワイへの移住

1990年の春、僕は人生で最初の転機をむかえた。
小学校に1年通い、ようやく身の回りの環境に馴染み始めてきた頃、僕の生活は大きく変わろうとしていた。
当時(恐らく今も同じだろうが)日本の学校でまともな英語教育を受ける事は不可能であった事を理由に、ハワイに移住する事になったのだ。勿論、日本でもインターナショナルスクールに通わせる経済力があれば、ハワイよりもよっぽど良い英語教育が受けられる事は間違いない。あの時は子供2人をインターナショナルスクールに通わせる余裕はなかったのだろう。わずか7歳の少年だった僕にとっては、そんな大人の事情はよく分からず、毎週楽しみにしていたドラゴンボールが観れなくなる事や、せっかく小学校で出来た友達と会えなくなる事のショックが大きかった。それに、見た事も聞いた事もないワケの分からないハワイなどという島で原始人のような生活が始まるのかと想像するたびに、不安はどんどん膨らんでいった。2歳半年下の弟マイケルはあまりにベイビー過ぎてこの憂鬱を味わずに済んだ。

しかし思いのほかハワイは栄えていて、勝手に想像していたようなジャングル暮らしは免れた。それどころか巨大なプール付きのマンションに連れられ、今日からここに住むと言われた時は正直驚いた。本当はこの家族は金持ちだったのか!と、そう思ったくらいの衝撃だった。ハワイでは家やマンションにプールが付いている事はわりと当たり前だが、そんな事も知らずに日本で生まれ育った僕にとってはいきなり巨大なカルチャーショックだった。「これがハワイか。楽園というのは嘘ではなかったんだ。遂に僕のパラダイス人生が始まった!」

あの状況ならばきっと誰もがそう思ったに違いない。
所詮、僕もまだ子供だったのだ。過酷な試練が待ち受けているなんて、その時の僕には想像もつかなかった…。

つづく

トルコ

僕はメモをとる事が苦手だ。
学生の頃もほとんどメモをとった事がない。
メモ帳があるとつい落書きをし始めてしまい、授業に集中できなくなるからだ。
そんなわけで今でも僕のメモ帳には落書きやアイディアばかりが書かれている。大事な話を聞く時ほど、メモ帳を遠ざける。

最近行ったトルコ旅行でも、歴史的な話や遺跡の話など沢山聞く事ができて非常に面白かったのですが、メモがとれない体質ゆえに、具体的な事はほとんど覚えていません。覚えているのは、トルコの面積が日本の倍で、人口は日本の約半分であるとか、オリーヴの生産量は世界で2位だとか、極めて覚えやすい事ばかりで、紀元前何年に何が起こったという難しい話はスッカリ忘れてしまいました。なので小難しい話はできませんが、単純に僕がトルコで面白いと感じた事について色々書いてみる事にした。

まず、地図を見れば大体分かる事なのですが、トルコは日本の約2倍の面積があります。
しかし、小さな島国の日本でさえ、地域によって言葉やイントネーション、食べる物や習慣など、様々な違いがあるわけだから、2倍も広い国に住む「トルコ人」の特徴というものを一言で説明するのはとても難しい。そもそも文明の十字路とも言われ、西洋と東洋の中間地点である土地ですから、歴史的にも何度も戦争/侵略が繰り返され、様々な人種や文化が混ざり合ってきたらしいのです。西洋風な顔立ちの人もいれば、かなり東洋風な顔の人もいますし、僕のように東洋と西洋の血が混ざったような人も多く、何度もトルコ人と間違えられたりもしたくらいです(笑)

色々な人種や文化が混ざり合ってきたからなのか、侵略の度に変化に適応してきたからなのか、とても順応性の高い人達という印象が強く残っています。トルコの人達は(とくに観光客を相手に商売をする人達は)様々な国の言葉を知っていて、相手に合わせて言葉を選びます。日本人には日本語、韓国人には韓国語、他にも英語やスペイン語など、様々な言語が飛び交っていました。それも大人だけではなく、子供の売り子でも同じで、「ジャスコより安いよ!」とか、一体誰に教えてもらったんだと思いますが、言葉だけではなく文化にまで踏み込んでいるのです。観光客を相手に商売をするのだから当然と言えば当然のように思えますが、ここまで「相手」に合わせて言葉を操る「現地人」が多い観光地はなかなかないと思いました。例えばハワイなんかは、日本人観光客を相手にする「現地に住む日本人」は多いが、元々現地の人でペラペラ話せるような人はそこまで多くはない。トルコの場合は実際の現地の人が喋るという意味では、ハワイなんかよりも遥かに日本語を話せる人が多いと感じました。

もう一つ面白いと思った話は、トルコの人は基本的に銀行にお金を預けないという話です。お金が溜まれば「金」を買うのだそうだ。金とは言え必ずしも一定の価値を保つとは限らないが、価値がなくなるという事はまずないからだ。そして家を買う時も銀行には頼らないらしく、ローンなども組まない。借りるとしたらあちこちの親戚から少しづつ借りるなりして必要な分を集める。ただそれだけで家が完成できる分のお金を集めるのは難しく、とりあえず集まったお金だけで家を作り始める。まずは最低限住める空間として一階分だけを作り、そこから住み始める。またある程度のお金が溜まったら、次は2階を増築し、また数年後に3階を増やし、最後に屋根を貼り、長年かけて家を完成させると言う。だからトルコでは屋根がなく、上が平で鉄筋が出たままの状態の家が多いが、ちゃんと人は住んでいる。
何年か前にマカオに行った時も同じように、まだ上の方が建設中の高層ビルにも関らず、先に完成させた下のフロアでまずカジノを営業しはじめているという発想が面白かった。上手くいけば建設中にその費用を回収してしまうのだろうか?
どちらも日本では絶対にあり得ない発想だが、間違いなく合理的でスマートなやり方だと思う。

トルコ旅行はとても新鮮な体験でしたが、やはり10日ばかり見ただけではその国を理解する事は不可能で、所詮は表面部分を少し見る事が出来たといった感じです。まだまだ、見たもの、聞いた事、その全てを十分に自分の中で処理しきれていないのですが、これから時間をかけて少しづつ整理していきたいと思っています。

最後に、はじめてトルコに行く人達へのアドバイスですが、最初にお金を両替する時はなるべく細かくしてもらう事を勧めます。トルコではお店やホテル、銀行でさえもお金を崩してくれない事がほとんどです。でもだからと言って日本のように数百円の物を買って1万円を崩すような事も難しく、大体断わられます。5トルコリラ(TL)を払うのに20TLを出しただけでも渋い顔をされるくらいなので、なるべく近い金額を払うはめになります。なので100TLなどは持っていても、大きい買い物をしない限りほとんど使えないので意味がありません。頻繁に使う機会が多いのは硬貨の1TLです。トイレなども有料で0.5〜1TLが多いので、1TLは多く持っておくと良いです。あとは5から20TLくらいの細かいお札で両替して貰うのが使い勝手が良いと思います。とまあ、そんな感じです。

下の動画はカッパドキアのアイス屋さんです。ハイテンションで笑えます♪
トルコはアイス、ヨーグルト、チーズなど、乳製品がホント美味しかった。ちなみにトルコアイスがあんなに伸びるのはヤギのミルクを使うからだそうです。

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